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生野区の歴史

Posted by : bang.

こんにちは。ブログって初めてなので戸惑っています。
私なりにやってみましょう。

いつ頃からかここ生野区がとても古い土地柄であることに気がつきました。
JR百済(くだら)駅、百済バス停などは今も残っている。

photo1

百済バス停

会社のすぐ近くに御勝山(おかちやま)古墳があります。
インターネットで調べてみました。

「南北112m、東西55m、高さ約8m。 5世紀前半に築造された前方後円墳と推定されています。被葬者は不明です。現在、前方部は道路(勝山通)と公園になっており、西側に周濠が残っています。昔は岡山とも呼ばれていましたが、1615年の大坂冬の陣、夏の陣で徳川秀忠が本陣をここに構え、その戦勝を記念して御勝山と呼ばれるようになりました。円筒埴輪・形象埴輪・土師器・須恵器などの遺物が出土しています。平成2(1990)年の調査で大阪市域では現在のところ最古となる縄文時代前半の土器片が発見されました。これを機にこの附近を勝山遺跡と名付けられました」

古墳の横の南北の道は桑津街道というそうで、仁徳天皇がたびたび皇后に会うために通った道だとか。公園の北東角に折口信夫の歌碑があります。

『小橋過ぎ 鶴橋生野来る道は古道と思ふ 見覚えのなき』

photo2

御勝山(おかちやま)古墳

■コメント

中野善雄 :

「百済」に大変興味を持っています。奈良県広陵町の百済には3年前に行きましたが、日本に地名として残っているのはここだけのようですね。かつては百済であったのがどんどん別の地名に変わってしまっているのは残念です。生野区と東住吉区に百済の名残が多いの知ってから、いつか行きたいと思っていたのが先週実現しました。百済貨物駅・南百済小学校・百済大橋のなど写真を撮ってきました。すぐそばだったのにバス停に行けず残念に思っています。父親の家に「我が家は400年前に蒲生氏郷の家臣として近江から会津若松に来た」、という文書があります。また会津郷土史家の中には「近江から来た会津人は百済滅亡の時の亡命人だ」という人もいます。そこまでは事実を確認できないのですが、「そうであったら面白い」という私の思いが百済好きの理由だと思います。

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